“Maxim’s de Paris”MUSEE ART NOUVEAU

ピエール・カルダン
Pierre Cardin パリ、クリニャンクールの蚤の市では、毎年10 月にテーマを決めてフェスティバルを開いている。そのフェスティバルのテーマに合わせて「白紙委任状」という賞を一人の文化人に与え、蚤の市の出店品を使い一つのパビリオンを飾ってもらう。2010 年のテーマは「ジャポニズム」。そして「白紙委任状」を託されたのはピエール・カルダン。
その会場でのカルダン氏。

 ピエール・カルダンといえば20世紀を代表するファッションデザイナーであり、ライセンスビジネスのシステムを世界中に広め、いち早く人の行かぬBRICs(ブリックス)の国々へファッションビジネスを武器に入り込んだビジネスマンである。さらに、新しい事物に挑戦し続けてきた開拓者、革新者であることは周知の事実である。2010年、ブランド創立60年を迎え、カルダンは88歳という年齢を感じさせないダイナミックさで、フランスのみならずニューヨークや東京で60周年のイベントを展開した。

 一体何が彼の挑戦者としての60年を支えたのか、その秘密を知りたいと思い、そして少しでも彼の素顔に迫りたいと思い、2010年9月から10月にかけての、パリ-東京での一連のイベントに密着取材を試みた。

 1922年、イタリア、ベニス近郊に生またカルダンは、幼少の頃フランスに移住、1945年にパリにて輝かし経歴の幕を開ける。1946年にクリスチャン・ディオールのメゾン立ち上げにスタッフとして参加、そして1950年にアトリエを構えて独立する。1959年に仏オートクチュール協会のメンバーとして初めてのレディス・プレタ・ポルテを発表、翌年にはこれも初めてのメンズ・プレタ・ポルテを発表する。これらの活動で協会を追われることになるが、時代はその事実に追従し、彼は再び重鎮として協会に迎え入れられる。その後1960年代、ライセンスビジネスを日本始め各国に拡大、そしてコスモ・コール(宇宙ルック)の発表等、常にファッション界の話題をさらってきた。1970年代、エスパス・ピエール・カルダンという実験芸術空間を設立し、芸術家の活動の拠点をパリの中心につくる。同時に生活環境デザインの分野にも進出し、アート・ファーニチャー「EVOLUTION エヴォリューション」を発表。1979年に、中国、北京で初めてのオートクチュール・ショーを開催。1980 年代にはレストラン「マキシム・ド・パリ」の経営権を獲得。マキシム・ブランドで食品ライセンスビジネスを広げる。1990年代、ユネスコの名誉大使に任命され、モスクワの赤の広場で大ファッションショーを開催し、フランス学士院アカデミー会員にデザイナーとして初めて選出される。2000年代、南仏にサド公爵縁のラコスト城を購入、その後毎年この場所で夏の音楽・演劇祭を開催する。

カルダン美術館
カルダン美術館に入ると真っ先に目に飛び込んでくるのが、カルダンがメゾンを設立した1950 年代当時の作品群。クリスチャン・ディオールのメゾン立ち上げに参加した後、1950年に独立したカルダンの当時の作品には、まだディオールのニュールックの影響も残っているといわれる。赤いコートはアメリカでも爆発的人気を博した1952 年の作品。

 こうして、カルダンの略歴をごく簡単に並べてみても、彼が挑戦者として最初に行った活動を語り尽くすことはできない。常に、前に前にというその精神は彼のどこから沸き出してくるのだろうか?

 カルダンの挑戦し続ける人生を支えてきたその美学は、あまり知られていないように思える。

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「幼い頃から、美しいものが好きでした」

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 そういう彼は1945年、パリで当時の有名オートクチュール店、パカン、引き続いてスキャパレリのメゾンに入り、そこでジャン・コクトー、クリスチャン・ベラール、ジョゼット・ディ、ジャン・マレーと知り合い、映画「美女と野獣」の仮面と衣装を担当する。本物を創りだす人達に認められ交流を深めることができたが、彼の次のステップは「美への探求」だった。

 1960年代のコスモコールで知られる作品はアヴァン・ギャルドで知られているが、しかしながら彼の美的志向は必ずしもそれだけではないようだ。

カルダン美術館
(右)1950年代後半の作品の一群。
「布の魔術師」と呼ばれたカルダンは1958 年に初来日。そして1ヶ月あまり日本各地で当時日本にはなかった立体裁断の技術を教える。その講習会を受けたのが森英恵。また、その時に見いだされ、その後パリのモード界を席巻するのがモデル松本弘子であった。


カルダン美術館
(左)1960 年代の作品群。
世界中の話題をさらったコスモコール(宇宙ルック)が左側に。壁にはNASA の月面着陸の際に使った宇宙服を身に着けたカルダン氏の写真が飾られている。コスモコールは「人が宇宙に行く時にこのようなスタイルで」と、未来に希望を抱かせるコレクションであった。

 オートクチュール・コレクションの発表で次々と新しく、そして体を覆う芸術を発表し続け名声を勝ち取っていたが、同時に仕事に疲れた時間は「過去の美しいもの」を尋ねてパリの骨董街や蚤の市を歩き回った。「一時、毎週末蚤の市にも足を運びました。どの場所のどの店に何があるかということを記憶していたくらいです。私は特にアール・ヌーボーの時代の物が好きで、気に入ったものがあれば少しずつ買い集めて自宅に飾りました」

 カルダンのアールヌーボー・コレクションは有名で、70年、80年代にはパリのアンティーク街ではまことしやかに「カルダンが買うからパリにはもうアール・ヌーボーは残っていない」と囁かれていた程だ。

アールヌーボーマキシム・スタイルの聖地
Maxim’s de Paris1 階のレストランの一角。
テーブルセットがされていない昼間に潜入したアールヌーボーマキシム・スタイルの聖地。トゥーパリと呼ばれるパリ社交界の人々が、そして各国の要人がこの席に今でも座る。

 1979年に仏政府により歴史的建造物に指定され、「フランス美術財目録」に登録された「Maxim’sde Paris マキシム・ド・パリ」のオーナーに話を持ちかけられたとき、「私は当然のことのように経営権を獲得しようと思いました。外国人にマキシムが買われてしまうのを黙って見過ごせなかったからです。そして1日で買収契約にサインしました」と語っている。

 そして、2004年、カルダンはこの歴史的建造物の上階2階を使ってアール・ヌーボー美術館を設立。それまでに蒐集した自身の家具や調度品、絵画やオブジェ等を並べた。
「私の美術館では展示品をガラスケースのなかに入れません。当時の生活環境がわかるように、美術品をそのまま部屋に配置しています。手で取って触れたり、椅子に腰掛けることすらできるのです。ここにある芸術は眺めるための物ではありません」

アール・ヌーボー
建築家では有名なアントニオ・ガウディがこのような家具を創っていたとは驚きであった。その上この美術館では、このソファに腰を下ろす事ができるのだ。ロワイヤル通り側の窓から入り込む優しい光を受けて、この部屋のなかは1900年の輝きを取り戻す。

 カルダンは当時の人々が使っていたように、その時代の館の各部屋を再現して見せている。アール・ヌーボーは19世紀末から20世紀初頭にかけて、ヨーロッパを中心に世界中に広がった芸術運動である。この運動は美術の世界を大きく広げ、建築、家具、家庭内小物や調度品に至る人々の生活のなかに浸透した。
「アール・ヌーボーは植物や女性の体の柔らかいラインに影響を受け、それらを表現した様式です。特に注目して頂きたいのは、日本の美術品に影響を受けたジャポニズムが色濃く表れていることです。この美術館ではこれらの特徴を堪能して頂けると思います」

 カルダンが気に入り買収するに至った1階レストラン、2階のバーに見られるインテリアは、アール・ヌーボー様式のなかでも特にマキシム・スタイルといわれるものであり、そのなかに身を置くと時空の流れを超えて、1900年代の初頭の輝かしいパリの社交界の雰囲気に浸れる。上階の美術館にはエミール・ガレ、ドーム兄弟のランプや花瓶等のガラス製品、ルイ・マジョレルの家具、ガラス工芸家ルイス・カムフォート・ティファニーのテーブルランプ、セムのカリカチュールが所狭しと並べられている。珍しいものではアントニオ・ガウディのソファセット、メトロ出入り口のデザインで有名なエクトール・ギマールの家具や花瓶、ロートレックの原画、大女優サラ・ベルナールが使っていた化粧セット、等々。600点近くの展示品が並び、そのなかに身を置くと、アール・ヌーボーの波に飲み込まれ、圧倒される。

Maxim's de Paris

Maxim’s de Paris2階のバーから美術館へと続く螺旋階段。往時の着飾った人々が柔らかい陽光と共に、明るい笑い声を建てながら上から下りてくるという錯覚に陥る。

Maxim’s de Paris “Musee Art Nouveau”
美術館は一般公開されている。詳細は下記ホームページで確認を。
3, rue Royal – 75008 Paris
TEL +33-1-42 65 3047
FAX +33-1-42 65 30 26
http://www.maxims-de-paris.com/p2us.htm
Pierre Cardin
http://www.pierrecardin.com
http://www.pcj.co.jp