ウィーンの伝統を受け継ぐ職人 – F.O. Schmidt(フリードリッヒ・オットー・シュミット社)
上/フリードリッヒ・オットー・シュミット社のローレンス・シュミット氏(左)とヨハン氏(右)
下/工房内は昔と変わることなく、代々受け継がれた道具なども使われる。
1853年の創業以来、時代それぞれの様式の家具やインテリアを作り続けてきたフリードリッヒ・オットー・シュミット社。長い間、そのすぐれた職人技を支えてきた秘訣はどこにあるのか。現在のオーナーであるローレンス・シュミットさんが語る、老舗職人集団の心意気。
フリードリッヒ・オットー・シュミット社(以下FOシュミット社)の設立のいきさつを教えてください。
FOシュミット社が創立されたのは1853年。創設者のフリードリッヒ・シュミットが息子のオットーとともに創立しました。シュミット家はもともとドイツから来ました。昔は大工をやっていたのですが、プラハで奥様と知り合って一緒にウィーンに移ってきたのがきっかけです。19世紀の半ばでちょうどリンク通りが作られた時で、城壁がつぶされて土地がたくさん空き、新しい建物がたくさん作られていた時期です。建物の建築がブームになってということで、ウィーンでインテリアの会社を開いたわけです。
ローレンスさんは何代目に当たるんですか?
世代ごとではないので何代目とは言い難いです。オットーには8人の息子と1人の娘がいました。8人の息子のうち3人の息子が会社に入り、その後にそれぞれが社長に1853年の創業以来、時代それぞれの様式の家具やインテリアを作り続けてきたフリードリッヒ・オットー・シュミット社。長い間、そのすぐれた職人技を支えてきた秘訣はどこにあるのか。現在のオーナーであるローレンス・シュミットさんが語る、老舗職人集団の心意気。なっています。中でも一番優秀だったのが上から3番目の息子のマックスです。FOシュミット社の歴史上、マックスの時が一番いい時期だったといわれ、マックスの友達の中には、例えばオスカル・ココシュカといった画家もおり、彼とも一緒に仕事をしています。ブタペストでも会社を開いたのですが、第二次世界大戦でなくなりました。マックスの後は末の息子が継いだのですが、これが私の祖父ということになります。さらに私の父が亡くなり、私が社長を務めたのは1980年からです。ですから6人目というのが正確なところです。
業務内容は当初からいまと同じですか?
FOシュミット社は設立当初は壁紙だけをやっていましたが、そのあとにインテリアも手掛けるようになりました。この25年でインテリアだけではなく、建物の建築もすべてを担うようになりました。とは言いましても、建築は個人のお客様だけです。
25年くらい前ということはローレンスさんの時代からですね。
そうです。活動の範囲も広げ、世界各国でプロジェクトが進行中です。例えば、マレーシアでは20年前に王様の宮殿を作ったことがあったのですが、その元王様の宮殿の修復プロジェクトがあります。あと、フランスで19世紀の宮殿の修復改装が目の前に迫っています。大阪では1990年に大きなプロジェクトがあり、その修復で現在、主人が日本に行っています。
ところで工房のある建物はとても素敵ですね。建物の歴史を教えていただけますか?
建てられたのはリンク通りができた後、1870年代。ご存じの通り、第一次世界大戦の原因はオーストリアの皇太子が殺されたサラエボ事件でしたが、その時の皇太子の奥様の伯父が元々ここに住んでいたのです。このような歴史ある建物を紆余曲折経てFOシュミット社が購入したわけですが、1896年にここに移った当初は、鍵を作る工房やガラスを作る工房、ペンキ塗りの場、ゴブラン刺繍の場など、この場所にすべての工房がありました。総勢600名の職人が働いていたのです。第二次世界大戦で大部分が爆撃で破壊されてしまったのですが、戦後、当時の父は修理に訪れた大工さんに「まず自分の工房を作ってください。工房ができたら仕事を開始しましょう」と言ったそうです。いまは会社のメンバーがみな一生懸命に仕事をしてくれるけれども、すべてを稼ぐ大本はこの建物にあるんですね。
職人としての魂を感じる逸話ですが、現在まで代々受け継がれる大切なことはどのようなことがありますか?
いっぱい、いっぱいあります。例えば、ひいおじいさんの代からの古い道具とかは現在でも使われています。昔の設計図もそう。戦争でたくさん消失したものもあるのですけど、建築家のアドルフ・ロースによる設計図なども残っています。
作り手としてもっとも大切な、手作りに対する情熱は代々皆が持ち合わせています。家具作りだけではなくて、どんな物作りであっても、その貴重な情熱を感じることがあります。特に建物全体を作るといろいろな職人がかかわることになります。紙、布を張るなどの作業もありますが、それも全部大切にしていかないといけません。あとは手作りによる品質。やはり品質が一番です。
利益を優先してオートメーション化・大量生産することも多い時代ですが、そういう風潮をどのように見ていますか。
やはりこの仕事をやって、何の仕事をやっても同じことは二度しません。いつも新しいことをやります。常に新しい冒険ですね。ただね、問題なのはすごく品質のいいものを作ると、30年、40年ももつでしょう。それが問題ですよね。もうからないですよね。ドイツ語のことわざで、「安いものを買うと高くつく」というのがあるんですけど、その通りだと思います。
最後に、オーストリアの伝統を守る仕事で問題点などはありますか?
ふさわしい従業員を見つけることが一番難しいことだと思います。そのためにはしっかりとした教育が必要なんですね。十分に教育されている人、それをやりたい人を探すのが一番難しいですね。どこの国でも同じではないでしょうか。でも、ここではみんなが家族のような関係だから、30年くらい働き続けている職人も多いんです。中央ヨーロッパではとても珍しいことなんですよ。
機能美備えた食卓の芸術品 – Wiener Silber Manufactur(ウィーン・シルバー・マニュファクチャー)
創業1882年の老舗銀器製造工房は四つ葉のクローバーがトレードマーク。創業以来、機能美を兼ね備えたデザイン性の高い物作りの伝統を受け継ぎながらも、時代とともに発展を遂げ、現在に至る。ヨーゼフ・ホフマンやコロマン・モーザー、オズワルド・ヘルテルなど、それぞれの時代を象徴するデザイナーや建築家とのコラボレートした作品を世に送り出し、食卓に新しい息吹を送り続けている。結婚式のお祝いや洗礼の際の贈り物としてのほか、普段使いにも本物を求めるウィーンの人々に愛され、確かな技術に支えられた緻密精巧な銀器の数々は、まさに食卓の芸術品といわれる。
職人の手作業が紡ぐ斬新なる家具 – Wittmann Mobelwerkstatten(ヴィットマン)
現在で4代目となる家具工房。もともとは馬具屋だったが、戦時中、「馬の時代は終わる」と家具工房に転換と、変わった経歴を持つ。早くからデザイナーとコラボレートした家具の製作に取り組み、今日ではあらゆるスタイルの家具が国際的なデザイナーによって作られている。これまでにはフリードリッヒ・キースラーや喜多俊之もデザイナーとして家具作りに参加してきた。創業より職人による手仕事にこだわり、代々受け継がれてきた手法がクオリティの高い家具作りを可能にしている。近年では「身体的な心地よさ」をテーマにした家具やヨーゼフ・ホフマンの名作の復刻なども積極的に手がけている。日本では大塚家具を通じて購入できる。
新旧アーティストの融合の結晶 – J. & L. Lobmeyr(ロブマイヤー)
創業は1823年。6代に渡ってガラスと照明の工房を家族経営で守ってきた。「製品が感動を与えること」がコンセプトであり、品質にこだわるために大量生産はしない。ロブマイヤーを代表するクリスタルグラスは、卓越したデザインだけではなく、軽さや丈夫さも兼ね備え、その完成度の高さから美術館に収められているものもある。ハプスブルク家による皇室御用達の称号を得るなど、創業当初から現在に至るまでの名声を支えるのは、伝統に支えられた誇り高き職人の魂と高度な熟練技術に他ならない。若手デザイナーを積極的に起用し常に新たなデザインを提案するなど、伝統と革新の融合で時代のニーズに応える、究極の道具といえる。
ウィーンの近代デザイン先導した布地 – Backhausen interior textiles(バックハウゼン)
バックハウゼン社のテキスタイルは、世界中の高級家具やカーテンの素材として使用され、東京のサントリーホールなども顧客の一つに数えられる。1849年の創業と歴史も深く、ハプスブルク家による皇室御用達の称号を受けるほか、ヨーゼフ・ホフマンやコロマン・モーザーとともにウィーン近代デザインの基礎を築いたウィーン工房に参加。その高い芸術性は現在も着実に受け継がれている。なお、バックハウゼン・ウィーン工房博物館では、1860年から1950年の間、名高いアーティストによって製作されたオリジナルデザインのテキスタイルをはじめ、歴史主義から世紀末芸術様式を経て、現在に至るテキスタイル図案の貴重な原形が展示されている。