ホイットニー・ヒューストンの曲がかかっている。
R&Bのスローなメロディーに包まれたこの空間では、社会的なステイタスの高い企業の社員たち、ちょっと簡単にはオトせそうにないOL達が、思い思いの会話を楽しんでいる。男たちはちらちらと女性達に目をやりながら、話しかけるチャンスをうかがうが、そんな瞬間は来そうにない。ここは、気位の高い女性ばかりを常連客としているBARなのだから。
2010年7月某日。
経済や不動産・金融などの市場分析や予測を行い、レポートを作成したり、講演会やメディアに登場して話をしたりするのがボクの仕事だ。普段はオフィスやクライアント企業で業務を行っているが、21時以降は、このBARを事実上の仕事場としている。今夜も週末の講演会で話す内容を考えるためにここを訪れた。バーテンダーたちも、いつも決まった時刻にやってくるボクのために、カウンターの一番スミの場所をリザーブしてくれている。そしてボクが席につくと、いつものように、そっとジン・リッキーを運んでくれる。
このBARでは、22時を過ぎると金融業界の人々が増え、緊張感に包まれた時間から開放されたひとときを過ごす。彼らの話を片方の耳で聞きながら、原稿を書きはじめる。
日本の不動産は今が買い時か。
今回の原稿のテーマは”日本の不動産は今が買い時か”という内容だ。
国交省などの公的機関発表の統計データやいくつかのシンクタンクが公表しているレポート、そして独自にクライアント企業などにヒアリングした集計データなどを隅々まで眺め、まとめていく。どの資料も同様に、市場は”今が買い時だ”と謳っており、不動産の底値のシグナルが見て取れる。野村不動産アーバンネット社が6月上旬に公表したアンケート調査では、8割以上の投資家が現在の不動産状況を”買い時”と答えている。また、私が責任者を務めている船井総合研究所REAL ESTATE チームが今年1月公表したレポートでは、今年度のマンション供給戸数は増えるという分析レポートを発表した。
各ディベロッパーが発売するマンションの供給戸数はすでに上昇傾向を見せており、中には、モデルルーム見学者が殺到する物件も現れた。
一方で、中国(とくに主要都市)の不動産価格の下落傾向が公然の事実として認識されるようになった。完全にバブルと言っていい状況だったものが、価格調整期に入ったのだ。様々な予測があるが15%.20%の下落は免れないという見方が大半を占めている。6月19日に人民元の切り上げのニュースが飛び込み、これがどんな影響を与えるかは予断を許さないところだ。日本の不動産市場へ資金が流入することも考えられる。
2005年から数年間の一時的な不動産価格の上昇は、世界的に見てとても小幅なものだった。東京の主たるオフィスビルの賃料の上昇は若干に留まっていた。現在ビルの不動産としての価値は、すでにその物件本体の価格ではなく、賃料で換算されるようになった。賃料の上昇下降こそが不動産取引価格に重要なファクターであることを考えれば、このことが理解できると思う。
いずれにせよ、日本の(とくに東京の)不動産価格は上昇傾向に向かうことは否めないだろう。すでに底値を打ったのかもしれない。我々の関係する企業も、条件のいい土地や物件を購入するモードに入っている。これからしばらくは”買い”ムードがさらに強まることだろう。
話すべき内容は、以上のようにまとまった。
フッと、煙草に火をつけて辺りを見回す。カウンター席にきれいな女性が一人で座っている。ショートヘアの、夏がよく似合う爽やかな女性。もうすぐ30歳を迎える年頃だろう。後で話しかけようと、チラっと目線をそちらに向けるが、「するべきことを先に済ませねば」と自らの意識を原稿に戻す。ここからが勝負。周りの雑音が聞こえないくらいに集中力を全開にして、講演用の原稿に仕上げていく。集中力には自信がある。原稿は15分くらいで完成させた。10年以上もやり続けていることだからお手のモノだ。
さて…と、さきほどのショートヘアに目を向ける。
すると、すでにその女性の傍らには、ブロンドヘアの男性が陣取ってなにやら話し込んでいる。このビルにオフィスがある外資系金融会社の社員だろう。女性の方はブロンドヘアの方に体を向け、爽やかな笑顔を振りまいている。
ボクはBARのマスターに小さく手を上げて、”帰ります”と合図した。
明日の朝は、スポーツジムで思いきり汗を流そう。
悔しさを忘れるくらいに泳ごう。そう決めた…。ボクの負けず嫌いは直らない。